「永遠なんてない」という真理は、この歳になるまでに何度も何度も経験してきた。
当たり前にそこに有った“物や人”など、今日もそこに有るのが「当然」なことではない。当たり前のように有るという「安定」は、なんの保障も根拠もない幻想で、本当はとても「不安定」なものだ。
ときに「不安定」という表現はネガティブなイメージを抱かせるが、ここでいう「不安定」はそういった類のものではない。
「安定」というものが、いかに自分本位なものなのか──ということを改めて自分に刻みたいだけ。
朝が来て、太陽が顔を出し、夜になり、街に明かりがともる──。こんな素晴らしい毎日に感謝することも忘れ、当たり前と思っている自分に言い聞かせるため──。
「有って当然」「居て当然」という慢心に、腹立たしい感情が生まれるとともに、「なくなる」と知ることで狂おしいほどに心を傷ませる。
それがなくなっても「何も変わらない」と自分に言い聞かせながら、なにか物足りないことに目をつむることで小さな傷が増えていく。こんな感覚も「なんて自分本位だ──」と思う。
安定は不安定から生まれた産物
ロボットが二足歩行をはじめたとき、その発想は「不安定」だったらしい。
それまでは、ロボット自体を「安定」させることに多大な労力をはらっていたが、ある時、バランスをあえて崩すことで「不安定」を意図的に作り出し、そのバランスを保つための「足を出す」というプログラムを追加した。するとロボットは「安定」して歩き出したのだという。
「安定」は、「不安定」の中に存在するもの──
そう、「不安定」がネガティブなんてことはないんだよ。というか「不安定」こそが自然で、当たり前のことなんだ。逆に「安定」こそ、なにか人為的な仕掛けや仕組み、システムによって意図的に制御された窮屈なモノなんだということ。
だから、自分本位な「当然」という見方を変える必要がある。未来の為に変えるべき思考──。
太陽を愛し、感謝し、想いを馳せるのは人間だけでなく、虫も動物も、植物も同じ──。
だれもが朝になれば太陽が現れる事を知っているし、そこに太陽がある事も知っている。太陽自身も自分がぐるりとそこから顔を出すことを知っているし、なんの疑いなく光りを配る。
でももし、太陽が遠くに旅に行きたいと言ったら──、ちょっと休憩したいと言ったら──。
太陽に感謝を込めて、その想いを受け入れてあげるべきだろう。